昭和46年04月07日 朝の御理解



 御理解 第35節
 「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」

 祈りに明けて、祈りに暮れさせて頂く生活、そういう日々が神の願いに応えて行く生活だと思う。信心生活とは、つまり神様の願いに応えて生活して行くことだと思う。それを、信心生活とは頼みごとのための信心というような考え方を皆がしておれば、それは成程頼むことも願うこともあるのですけど、神様の願いに応えさせてもらうという生活が、本当の信心生活だと分からせて頂いての願いであり、頼みであらなければならん。そこに願い合いがあり、頼み合いがあるということになってくる。
 結局はどういうことかと言うと、氏子の幸せ、人間の幸せということになるのですね。神の願いに応えると言ったって、神様がお宮を建立してくれとも、神様が沢山お供えしてくれと仰るわけじゃない。そういうことは神様の願いじゃない、とにかく願いはギリギリ人間幸せの生活、日々嬉しゅう暮らして行く、そのことが神の願いだと。私どもはただ困ったこと、分からないこと、願うたり頼んだりして行くことだけを信心と思うておる人も沢山あります。
 ですからこの三十五節とは、言わば神様の本当の心、神様の願いを願いとして、私ども生活するというのがこの御理解の神意であろうと思います。そこから家内に不和がないということ。日々が元旦のような心、日々が大晦日のような心、しかも信心は日々の改まりが第一、それを本当なものにしたい。本当に元日のように、言うならめでたい心という心を、いよいよ本当のものにしたい。家内に不和はない、自分自身の心に不和はないというおかげを頂かなければならん。
 先日、私はあるお寺さんの建築を見せて頂くために、秋永先生と設計の古屋さんと、それから久富正義さん、高橋さん二台の自動車に分乗して参りました。見事な建築でした。丁度その法要の大法要の三日間続けてあった。その三日目に参りましたが、言わばてんやわんやという雰囲気でありました。下の方の色々な建物を見せて頂いて、そこのお寺さんというのはもう高良山の、あれの二倍もありはせんかと思われるような石段がずっとその上にありますのでね、私はついつい登ることをようしませんでした。
 そこで二三人で、秋永先生と繁雄さんと高橋さんの三人で上の方に参りました。それで下の方で待たせて頂いとって、下の方でその町を挙げて商工会、食物屋やら出来とった。うどん、そばラーメンおでんといった。変わった趣向、食べ放題、百円で何杯食べても良いという。しかも、味がなかなか良い味で、美味しいうどんですね。そこでうどんども頂いて、皆さん上に登りましたから、降りてくるのを待っておりました。そしたらこう天幕を張ってやっておるんですからね。
 うどんを食べ終わって待っておりましたら、少し風が出て参りました。そして食卓テーブルの上にはラーメンにかける胡椒がズーッと並べてありました。蓋もないのに。そこで私はこちらで、これは風が吹いて、ここにかけておると胡椒があの風で飛んできて、目にどん入ったら大変だなと私は思うた。小さい皿に洋胡椒ですか、一杯入れて並べてあるわけです。それで私は風下の方に腰掛けておりましたから、そう思うた。
 思って一分くらいしたら、本当に私の目の中に入ったのですけど、ファーっと吹いてきた一陣の風ですけど、胡椒の粉がバッと私の目の中に、右の目に入って、本当に胡椒で目つぶしをするというがやはりひどいもんですね。あれがまともに入ったら。それが風がパッとほんの僅かだったでしょうけれども。それで私がいつも水を携帯しとりますから、水を手の平に取ってから二三回洗わして頂きました。それでも暫らくは痛かった。その時に思うたですね。本当に神様はね、もう一分前に思わせてござる。
 目にども入ったら大変だな、風が吹いてきたらこれはパーッと目に入るぞと思うとるのです。いわゆる思わせて頂いとるのです。私はそのことを非常に強く思いますことはね、思わせて頂くとか、言わせて頂くと言う事はね、これは自分の意志ではないと言う事。最近それをね、ああ神様が思いござる。神様が言わせござるのじゃなと。これは本当に思うようになりました。だから以前はね。
 これは少し言い過ぎたかなと、自分の心に咎めることがございましたけども、自分が言うのじゃない、神様が言いござると思わして頂くようになったら楽になる。だから思わせて頂いとることも、神様が思いござるのじゃなとこう思わせて頂くようになった。これはね皆さん誰でも同じことだと。私は胡椒が目に入ったというのは、まあちょっと油断があったという感じがしました。神様が油断をしておると胡椒が目に入る。
 まあ胡椒が目に入るくらいなら良いけど、そう言う事がどういう大きな災いの元にならんとも限らない。ですから、私がすぐそれを例えば向きを変えさえすれば良かった。こちらの方を向いとるとを反対側の方を向けば目に胡椒が入るようなことはなかった。目に入ってしもうて、ああやはり私が思うたんじゃなかった、神様が思わせて下さったんだなと思う。楽でしょうね。思うことは神様の思いなさること、言わせて頂いとることが神様の言いござることと頂けるようになったら。
 私は信心で言う、元日の心とか、大晦日の心とかいうものは、私はそういう心のことだと思う。ここでは例えて申しますと、毎日元日の心、言わば元日の心であると言う事は、今日は不足不平ども言わんぞと。人に悪口なんか言ったら、人に傷付けるようなことは言わんぞと。お互いが注意し合う心掛け合う。大晦日となるとやはり一年中の締め括りですから、いよいよ明日はめでたい元日を迎えさせて頂くためにも、あれもしもうとかねばならない、これも片付けとかなければならないと。
 事柄の上にも、心の上にも、言わばケリを付けるというかね、ケリを付けることに一生懸命ならせてもろうて、いよいよ明日の元日を目出度いものにしようとする努力を致します。ですから元日はやはり目出度いですから、そのようにいつも心掛けさせて頂いておればです、いつも心が元日のようであり、大晦日のようであり、それこそ祈りに明け暮れさせて頂く生活が出来るわけです。ところがそれではね、それは中々出来るものじゃない。元日でないものを元日のように思えなんて言ったって。
 ならば例えば三日なら三日お仕事も休ませてもろうて、そのことだけ専念しとけば良い、楽に楽しゅう目出度いと言う事だけに心掛けておけば出来るかもしれないけれども、お互いにそんなわけにはいかん。元日のように遊んでおくわけにはいかん。楽しいことを、楽しい思いを毎日考えとるわけにはいかん。それこそ日々が、それこそ生活のために大同であり、または追われておる私どもでございますから、元日のような訳には行かん。ですから、自然元日のような思いになることも出来ないことになる。
 けれどもね、私どもが日々思わせて頂いておる、言わせて頂いておることがです、神様が思いござるな、神様が言いござるなと思えれるような日々刻々であると言う様なおかげを頂いたら、勿論自分の心に不和が起こることもありますまい。勿論家内に不和がないということになりましょう。ためにはどうでも一番初めに教えておられます。「信心は日々の改まりが第一じゃ」と仰る。ここんところにどういう訳で、「日々の改まりが第一じゃ」と言うとられるかというと、いわゆる元日の心、大晦日の心です。
 様な思いで暮らすという中々しかし出来ない。けれども私どもがです、私共の心の中に神がござるからと仰る、その私どもの心の神様がです、神様としての働きをなさる為には、私どもが日々改まらなければならない。日々が清まる事に努めておかなければならない。ですから大晦日の心とか、元日の心とかと言う事はです、ここで信心で言うならば、日々の改まりと言う事である。本心の玉を研くと言う事に心掛けねばならぬ。
 その心がそういう状態である時に、その心が感じること、または感じたことが言葉になって出ること、また体の上に現われてくる言わば動きである。私どもの動きそのものがです、言うておることが、思うておることが、実意な思いであり、実意な言葉であり、実意な態度であるということになってくる。金光様の御信心をするならそこのところに焦点を置いておかねばならん。
 皆さん方でも、言う口の内にと言う事がありましょう。子供が遊んでおる。ああそげなところで遊びよると危ないという口の内に転んだり、怪我したりあれはその時に、その人の心の中に神様が働いておられるからです。心の神が働いておるからです。無意識の中に神様のはたらきをそのように感じるのです。噂をすれば影とやらと、そんなことがありますでしょう。あらあなたのことを言いよったらとその辺のところは実に微妙です。そう言う様な事がいつもである。いつも思えたり感じれたりする生活。
 今日も一つ本気で元日のような心で暮らそう。元日のような心で楽をしようではなく、元日のような心で仕事をしようと言う事にならなければ、今日も大晦日と思うて、もう良か良か明日で良かと言った様な横着な心にならずに、やはり締め括らして頂いて、神様に最後の祈りを捧げる時、「今日もまあ忙しい一日でありましたけれども、おかげを頂きまして大過なく過ごさせて頂きました」とお礼の言えれるようなおかげを頂くためには、矢張り締め括りが大事。
 あれもしとかにゃならんやった、これもまだ残っておったと言う事で、神様の前に出ても、例えば寝させて頂いても、良い眠りに入ることも出来なければ、心の中に安静な心を頂く事も出来ない。そう言う所を私どもが改まって行くのです。信心は日々の改まりが第一。そういう日々の改まりを改まらして頂くという生き方が、段々身に付いて参りますと、本当は自分の心に神様がござるのですから、その神様が清められておいでられる。そこからはっきりしたものが見えてくるようになり。
 はっきりしたことが出来ることになってくる。信心は日々の改まりが第一、私どもは日々その改まるということに心を向けさせて頂いて行けばね、それが神様の願いに応えて行く、いよいよ本心の玉を研いて行くというそのことが、神様の願いに応えて行くということ。そこに生まれてくるものは心の安らぎである。安心である。そういう言わば安心の心、そういう心から私共は、ははあ神様が思いござるとじゃなあ。神様が言いござるとじゃなと思われ言われするような生活が出来るようになる。
 そういう生活を、私共は本当の意味においての信心生活、いわゆる祈りに明け暮れさせて頂くと言う事は、ただ朝晩拝みよることではない。そういう生活をですね、私は元日の心とか大晦日の心という風に、今日はその元日の心とか大晦日の心とか、そのもう一つ向こうにある本当の意味においての目出度い心、本当な意味においての実意な心、そういう心にならして頂く時に、心が安らぐ心が不和ではないわけである。そういう心の状態であれば、日々嬉しゅう暮らせば家庭に不和はないというおかげになってくる。
 昨日先日ある方がお参りになって、仕事に行き詰まりをお感じになって、ここに少し資本でも借りて、も一度やり直そうか、またもう人に譲ってしまおうかと言う事からで、初めて参って見えた方が、今日はどこどこにお金を借りに、的があるわけでしょう。行きたいと思うと言う様な事でしたけれども、神様は動かないが良かと、今のままが良いと。そこから開けてくる道を願われたら良いと。今焦られたらいかんと言う事であったが、昨日また参って見えました。
 そして「実は先生、譲り受けたいという人が現われた」とこう言うのです。前々から話がないわけじゃなかったけれども、具体的な事になって来ました。このままやはり続けたものであろうか、まあ譲り渡してしまったが良かろうかと。そこで私は即答致しました。「それは人に譲り渡しなさったが一番おかげですよ」と申しました。そこからね御神意のままに動かれたら、例えばあなた方に一番最適な仕事、現在の仕事はもうあなた方に一番向かない。言うなら結婚で言うなら、相性が悪い今なさっておる仕事は。
 それを益々なさっておいでられると。私はその人間、それは人間ですけどね、もう断崖絶壁のところに家が建ててあるようなもの、実に危ない。しかもその断崖絶壁のですね、その下がこう崩れてきよる。まだ自分は気が付かない。だからもう今の間に、じっとそこを出ておられたが一番良いと言う様な状態のところにあるのだから、これは仕事の方は早く切りを付けられて、そして譲られたら、慌てずにじっと道の開けてくるのを見極めて、時節を待っておかげを受けて行かれたが良いであろうと。
 そこで時節を待たれる間は、日々嬉しゅう暮らせばというか、信心は日々の改まりが第一とか、心の上を改めて行くとか研いて行くとか、自分の心の上のことを見極めようともしなかったことを一つ見極めて、そこからおかげを受けて行かれたが良かろうと。ところが実際はねそういう時であればある程、中々じっとして時節を待たれんのです。いわば気が気じゃないのです。それが当たり前普通です。
 ところが今日私が申します、元日の心とか、大晦日の心とか、というそういう心を日頃養うて参りますと、そういう時にバタバタせんで済む、いわゆる元日のような心で、ゆったりと、過ちを繰り返すことなくです、と言う様なゆっくりとした心が生まれて来るのです。だから失敗がない。同時に家内に不和はないという、自分の心に不和はないと言う事に精進させて頂くのですから、これにおかげが頂けるのは理の当然である。当たり前のこととしておかげを受けられる道が開ける。
 例え時節を待っても、泣く泣く時節を待つのでなくてです、大晦日の心、元日のような心で時節を待たせて頂く事が出来る信心を日頃から頂いとかなければならない。それにはね、いよいよ私の心がです、神様が思いござるとじゃなと、神様が言いござるとじゃなとそれを信じられるところまで、自分の心が神に向うて行かなければならない。信心とは、わが心が神に向うのを信心というのである。ただ信心しよれば自分の心が神に向うて行くのじゃない、日々に改まって行く、日々に研いて行く事に努める。
 というそういう精進が、わが心が神に向うて行くのでありますから、わが心の神様が、わが心が動くところ、神様の動きであり、思うことそく神様が思われることである。成すことがそのまま神様が成さしめておられる、と言う事になる訳であります。有り難いですね。例えば私が朝の御祈念にかかりましょう、まあ何人かしかお参りになっていない。四時から五時までの御祈念の時間、お祈りをすることがいつも同じじゃない、いつも毎日違う。もちろん違う。
 型通りというものではない、もう願うこと祈ることは違いますけど、一時間御神前に座らせて頂いておって、立たせて頂くとやはり一時間。お昼の四時の御祈念の時でもそうである、三十分であると大体思っておる。御祈念を終わって立つ時やはり三十分である。時計を聞くわけでもなからなければ、言うわけでもなからなければ、何か合図があるわけでもなんでもない。成程神様が御祈念しござるとじゃなあと、神様がもう立とうと思いござるとじゃなあと感じるのです。
 だから私はまあ言うならば財布を持ったこともなからなければ、時計を持ったこともない。その必要がない。なら私は初めからそうであったわけではない、段々信心は日々の改まりが第一であると。信心はもう本心の玉を研く以外にないんだと思い込ませて頂いた。事毎に改まる、研いて行く材料にさせて頂きよったら、ははあこれが元日の心でもあろうか、これが大晦日の心でもあろうかとも思える心が自然備わってきた。それこそ祈りに明け暮れさせて頂く生活が、いよいよ有難いものになってきた。
 その有難い心で思うこと、有難い心で行なうこと。それが場合には、激しい言葉になって出ることもあるけれども、ははあこれは神様が激しく言えと言いござるのじゃなと、自分で思わしてもらうから、呵責がない。また自分の感情が混ざっとるのかと思うても、思うことがない。おかげが頂けるようになってきた。段々自分の心の中がです、不和ではない心。ですから、家内中が不和がない。
 そういう家庭そういう心の上に神様は限りなくお恵みをたれて下さるわけであります。今日は三十五節の元日の心、大晦日の心を、その心のまた心とでも申しましょうか、本当の意味での元日の、信心で言う元日の心、大晦日の心というものを今日は聞いて頂いたのですけど、まあ言わば私のことを聞いて頂いたようなことであります。ですからここに通って見える皆さんも、やはりそういう姿勢を以て、そういう心に取り組まして頂いて、おかげを蒙って頂きたいと思うのです。
   どうぞ。